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エンタメ界の端っこで生きる管理人が、世を騒がせる数々のエンターテイメント作品について、あれこれ考察するブログです。

バチェラー3の衝撃的な結末は、ドラマとして王道すぎる【感想・考察】

 

 

 

この数ヶ月、日本中の皆さんをドキドキさせ、最後にはもやもやの渦に巻き込んだであろう作品、「バチェラー・ジャパン」シーズン3。

 

世間では今回のバチェラー、友永真也さんに対する猛批判が巻き起こっているようですね。(主に女性からの批判が多いようです)

 

 

 

しかし管理人は、今回のバチェラーの選択を全面的に支持します。

 

 

と、こう書くとバチェラーの選択を受け入れられない皆さんからは非難轟々でしょうかね、きっと。

 

私がこのような感想を持った理由は、「ドラマの展開として、よく出来すぎている」からです。

 

どういうことか、説明したいと思います。

 

 

目次

 

 

 

番組としては型破りな結末

そもそも、「バチェラー」はドラマではなく、「恋愛リアリティ番組」です。

 

「バチェラー」という番組の構造としては、富も知性も持つ完璧な男性を多数の美女が奪い合い、最終的に選ばれた一人の女性とバチェラーが結ばれる、というものです。

そこで描かれる女性達のバトルや、バチェラーの苦悩などにスポットを当てながらバチェラーまたは女性に感情移入しつつ、または一歩引いた目線で応援しながら視聴していくというのが、多くの視聴者の見方だったかと思います。

 

今回のシーズン3では、初めてエピソード終了後すぐに新たな展開が生まれました。

最終エピソードで結ばれたはずの水田あゆみさんと破局し、去っていった岩間恵さんと新たに交際を始めたという展開です。

これはこれまでのシーズンでは見られなかったものでした。いわゆる「ちゃぶ台返し」ともいえる「そりゃないよ」的な展開です。

 

これは、一作品として「バチェラー・ジャパン」を楽しみたい視聴者の皆さんには受け入れがたいものになったということなのだと思います。

 

そういう意味では、シーズン3が、そしてバチェラーが批判される理由は当然のものと受け止めることもできます。

 

しかし管理人が今回のバチェラーを支持する理由は、もう少し違うところにあります。

 

 

 

 

 

「ドラマとして出来すぎている」理由

さて、その結末が一部の視聴者から猛批判を受けている「バチェラー・ジャパン」シーズン3が、なぜドラマとして出来すぎているといえるのか。

 

それを解き明かすために、最終エピソードまで残った二人の女性と、バチェラーである友永真也さんの物語構造的立ち位置を説明します。

 

友永真也…主人公。優柔不断で、いろんな女性に目移りしてしまう。

岩間恵…主人公が片想いする女性だが、主人公には思わせぶりな態度をとる。

水田あゆみ…主人公を一途に愛する優しい女性だが、なかなか報われずにいる。

 

と、このようになります。

 

 

恋愛ドラマの王道展開として、「自分を無条件に愛してくれる異性と一度付き合うも、自分の中の違和感を捨てきれずに、本当に愛する異性の元へ戻っていく」というものがあります。

 

例としては「花より男子」(ドラマ版)

10話で、事故により記憶を失った道明寺が、健気に自分を看病してくれた女の子のことを好きになってしまい、つくしのことを無下に扱う。

しかし最終的には記憶を取り戻し、二人はハッピーエンドを迎える。

というもの。

 

花より男子」ではこのエピソード以外でも、基本構造として道明寺司、花沢類、牧野つくしの三角関係というものが主軸として存在しました。

 

牧野つくし…主人公。本心では道明寺に惹かれているものの、それをなかなか認めない。

道明寺司…財閥の御曹司。つくしに対して厳しい態度を取り続ける。

花沢類…F4の一員だが、つくしに優しい。

 

 

この関係性、似ていますよね?

 

「バチェラー」の登場人物を「花より男子」の登場人物に当てはめるならば、

 

友永真也=牧野つくし=主人公

岩間恵=道明寺司=真に愛する人

水田あゆみ=花沢類=恋のライバル

 

…と、このようになります。

それぞれの設定も、男女逆転しているだけでほぼ同じですね。

 

 

このような関係性、ドラマ展開は、恋愛ドラマではよくある展開であり、王道なのです。

 

以上の理由から、「『バチェラー』はドラマとして出来すぎている」という結論にたどり着くというわけです。

 

 

 

 

 「恋愛リアリティ番組」はどれほどリアルなものとして捉えられているか?

さて、「バチェラー・ジャパン」シーズン3はドラマとして出来すぎている、と書いてきましたが、依然として残る問題は「バチェラーはドラマではなく、恋愛リアリティ番組だ」という点です。

 

私は、視聴者にとって「恋愛ドラマ」と「恋愛リアリティ番組」は、それほど別のものとして捉えられているようには思いません。

それぞれの作品を見る際に視聴者がすることは実は全く同じで、それは「登場人物に感情移入しながら、恋愛の行く末を追っていく」ことです。

 

特に「バチェラー」シリーズでは現実離れした展開が多いため、視聴者の中にはフィクション要素を強く感じる人もいたのではないでしょうか?(ヤラセという意味ではありませんよ。「物語」のように感じられたということです)

 

むしろ本当にすごいのは、これが脚本のあるドラマではなく、あくまで台本のないリアリティ番組で起きたことだと考えています。

 

 

 

 

 

終わりに-それでも納得できない

いかがでしたでしょうか。

ここまで「バチェラー」のドラマとしての秀逸さについて書いてきました。

とはいえ、その結末に納得できない方がいることには違いないと思います。

 

 

その理由は、

「誰に感情移入していたか」だと思うのです。

 

最初から作られたドラマでは誰に感情移入させるかを作者がコントロールしているものです。

しかし「バチェラー」ではリアリティ番組であるからこそ、誰に感情移入するかは視聴者の自由。

「バチェラー」を見ていた方ならば、一途にバチェラーを想う水田あゆみさんに「報われてほしい!」と入れ込んでしまうのも仕方のないこと。

 

今回のバチェラーでは残念な結果となってしまいましたが、水田さんが主人公の物語がきっとあるはずです。

その物語では幸せな結末となることを願わずにはいられません。

 

 

 

もちろん、今回結ばれたバチェラー友永さんと岩間恵さんも、素敵な人生を。

 

 

 

 

お読みいただき、ありがとうございました。